年商9百万円/社員数3名
自動車リース専業、資本金8,000千円
創業時における自動車リースの成長性と問題点
成長性 : 新車購入、メンテナンス、使用後の車両処分、自動車保険等ユーザーにとって手間のかからない事がメリット。
当社にとっては自動車に関する多くの収益機会がパッケージされており経営効率が良い
問題点 : 現金で新車購入し、回収は残価相当分を差引き、4~5年で分割回収のため、大量の資金必要。
契約増加につれ借入金が無制限に増加。(これが最難関、これを解決しなければ前に進めない)
・飛び込みによる新規開拓
・全車種のクラス別メンテナンス原価構成確立
・委託整備工場管理及びネットワークの確立
・車種別残価の確立
・契約ベースと決算ベースの利益と資金推移の把握と管理
(特に金融機関への明確なデータ提供と社内の経営管理強化)
年商383百万円/社員数13名
自動車リース事業は資金面で銀行依存度が高く、特に当社は独立系のため経営が不安定な状態が続き、
リース事業を活かした次の柱となるべく事業を模索し始める
銀行系リース会社が次々に設立されリース事業活発化。
各社自動車リース取扱検討するも、数多い車種への対応困難なため自動車リースの取り扱いができていなかった。
この事等を勘案し、相互の得意分野を担当する事で不得手業務を補い合い、地方銀行における自動車リース業務を可能にする業務提携構築
清水総合リースと、当社初の業務提携契約成立
以後次々と業務提携成立し第2の柱となり、経営が安定化
菱信リース(三菱信託銀行関係会社)現三菱オートリースとのメンテナンス業務受託契約成立
年商1,526百万円/社員数30名
1990年(H2)頃、社内営業部門の業績表彰で最優秀部門にグアム島旅行
年商3,434百万円/社員数49名
プロパーリースから、リース提携、メンテナンス受託への事業転換
年商5,214百万円/社員数64名
主たる業務がリース事業から第2、第3の柱に移行したため社名変更
年商5,232百万円/社員数54名
2004年メンテナンス管理基幹システム一元化に4億円投資
年商9,579百万円/社員数145名
新社屋新築完成(鉄骨4階建て、延べ床面積597坪)
年商7,027百万円/社員数219名
創業当時は資金繰りが大変でした。
創業者の出口 満が経営方針を打ち出し、営業目標を設定。
なんとか銀行から資金調達しようと全国を回り、多くの金融機関にお世話になりました。
なかでも日本信用ファイナンス様(日本債権信用銀行関連会社)には
当社最大の融資枠を確保していただくなど、多大なバックアップを受けました。
それにより、当社リース事業の継続が可能となり、
事業転換を進めるに当たっての基盤を作る事ができたと思います。
一方で、営業目標を達成するため契約を取ろうとひたすら走り回りました。
しかしなかなか契約は取れません。大きな転機は、三菱信託銀行系の菱信リース様からのメンテナンス受託、
日本信用ファイナンス様の全面的な支援、清水銀行様とのリース提携などです。
当時の事業体系はプロパーリースのみでした。管理営業(既存ユーザー担当)が4名、
そして新規営業(飛び込み営業担当)が6名の計10名体制です。
飛び込み営業は新人が担当し、原付バイクでエリアを決めてのローラー営業。
1日20~30件の飛び込み訪問をしました。
当時のことですから、訪問先の車両担当者はカーリースとレンタカーの区別がついていないことも多く、
お断りの連続でした。50件ほど飛び込み訪問をすると1件の割合でホットユーザーが獲得でき、
ホットユーザーが50件獲得できてやっと1件成約、といった具合です。
実に成功率2500分の1(成約率は0.04%)と非常に低いものでした。
それだけに、飛び込み営業による新規成約があると、朝礼で成約発表を行い、
社員全員が拍手で喜びを分かち合いました。
現在はメンテナンスカードをプリンターで印刷していますが、
当時はメンテナンスBOOKといって、小冊子で手書きのものでした。
自賠責保険や任意保険の加入手続き、契約書などは和文タイプです。
結果として残業や休日出勤も多かったです。
だだ、辛かったとか嫌だったという思いはありませんでした。
全体的にアットホームな雰囲気で、社員旅行に日間賀島へ電車で行ったのは良い思い出です。
当社は、物融業である独立系のオートリース会社として1978年にスタートしましたが、
この業態は、取引が増えるほどに高い資金調達力が必要とされます。
そこで、それまでに培った自動車にかかわるノウハウを生かしつつ、
事業における第2の柱を構築することになりました。
「リース資金を必要としない業務提携案」、つまり「メンテナンス受託事業」です。
この構想を携えて清水銀行様に相談したところ、
「大変おもしろい案ですね」とトントン拍子に話が進み、決済をいただきました。
この最初の業務提携によって地方銀行系リース会社様の信用を得ることができ、
現在にいたる道筋を築くことができました。
1987年、東京営業所が開設されました。
最大の使命は、菱信リース様の自動車リース事業拡大への貢献です。
菱信リース様が獲得した案件の車両仕入からリース原価の諸費用算定、メンテナンス料、
残価保証、リース許認可まで含めた登録業務で、現在のリース提携業務と同様の内容でした。
1988年11月には、共栄火災様の紹介で八千代信用総合リース様との業務提携も決まりました。
1990年代中頃、菱信リース様からのメンテナンス受託台数の比率が、全体の50%を超えました。
1社への依存度が高いというのは大きなリスクです。
このリスクに対処するため、新規提携先開拓の取り組みを強化。
併せてNMS契約の開拓強化も実施しました。
その後、実際に菱信リース様はダイヤモンドオートリース様と経営統合し、
メンテナンス管理を自社に移行する方針を立てました。
菱信リース様からの契約台数は落ち込みましたが、新規提携先開拓の取組みが功を奏し、全体数は維持できました。
世情をよくにらみ、先取りしてリスク対応することの重要性を実感しました。
1990年代に入り、メンテナンス受託事業が急速に拡大しました。
数百台単位のリースバック案件が発生するようになり、見積台数、案件数ともに急増。
それに伴って、見積業務にパーソナルコンピュータの表計算ソフトを利用するようになり、
基幹システムのデータ量、および通知や問合せ等の外部アクセスが急増しました。
これらの状況から、業務効率を向上させる必要に迫られ、
基幹システムの全面的にリニューアルすることを決定しました。
これまでのホストコンピュータによる汎用機システムから、
費用対効果が最も高いパーソナルコンピュータでシステム構築する「クライアントサーバー方式」に変更。
ハードウェアのダウンサイジングを図りました。
この方式に合わせて、ソフトウェアを柔軟に開発できるオープン系システムを採用。
その中でも最も重要なデータベースソフトは、当時はまだ導入例が少なかったものの、
ORACLEが最も安定性が高いと評価し導入しました。
導入後、想定通りデータ量が急増しましたが、安定的に運用され、業務効率も大幅に改善しました。
併せてMicrosoftofficeのAccessとExcelを導入。
その結果、基幹システムのデータは限られたプログラムに縛られず、
自由な発想で社内外のニーズを取り入れた活用やアウトプットが、各部門で活発に行えるようになりました。
米国で大手の車両管理会社や残価保証専門保険会社、通信最大手、カーショップなどを視察しました。
米国の自動車リース業は、日本のようなメンテナンスリース主体ではありません。
すべてファイナンスリースで、別契約でメンテナンス管理を委託しています(大口企業のみ)。
メンテナンス管理には、日本と異なり定期点検という概念がなく、
故障に対していかに早く安く対処するかということが求められ、
年度ごとに提携企業とコスト改善について話し合い、料金を決定していました。
年度で損益を話し合うという考え方は、その後の当社アウトソーシングビジネスの基礎作りに役立ちました。
また、日本と比較してITが格段に進んでいることにも感銘を受けました。
当時から部品を自動車メーカーや電装メーカー、ガラス会社などにインターネット上で直接発注しており、
通信最大手(AT&T社)では、社用車にGPSチップを装着して車両の位置管理、
売却時の引き揚げ管理をしていました。IT技術活用の最先端を視察できた有意義な視察でした。
1994年導入の基幹システムは、2004年にリニューアルされました。
このリニューアルは、より広範囲に、より詳細な情報を蓄積させることを目的としており、
当然ながら入力する整備作業項目数とデータエントリー量が増え、作業負担増となることが予想されました。
実際に運用を開始すると、残業が大幅に増え、特に整備支払業務の負担増が顕著となりました。
そのため早急な対応が必要となり、業務センター構想が生まれました。
これは、短時間勤務制度を確立し、勤務時間の自由度を高め、時間当たりの十分な人員を確保し、
集中的に業務を行うことで増大した業務に対処しようとするものです。
この制度が活用され、メンテナンスサービスセンターがオープン。
業務量への対処のみならず、業務の品質を向上させました。
このセンター機能は、本社社屋完成に伴い、高度集中業務対応機能へと変化していきます。
韓国の企業へ、当社のシステムを輸出することになりました。
最初は簡単に考えていました。しかし当初の予定よりも要求度合が大きくなり、
当社システムを稼働させるための環境整備から行うこととなりました。
サーバーの環境設定、データベースの導入・調整、全て当社で行いました。
本来はシステム業者が行う作業です。韓国語の話せる社員はいませんでしたから、仕方なく英語との格闘。
先方業者や担当者とも言葉の壁が厚く、通訳はいましたが、
専門的な話なのであまり役に立たず、簡単な英語で筆談なんてこともしました。
苦労した分、達成した時の喜びはひとしおです。システムが稼働する頃には、言葉の壁はなくなっていました。
ただ、ちょっとだけイタズラを仕込んでおきました。エラーメッセージを「〜だがや」としておいたのです。
名古屋弁です。韓国語へ翻訳すると、このメッセージは「~スムニダダガヤ」となっていました。
最終的にはこういうことも許されるくらい先方とのコミュニケーションは円滑になっていたのです。
言葉や文化、様々な壁があろうとも、思いが一つになっていれば成し遂げられると実感した事案でした。
情報管理強化のため、プライバシーマークを取得することになりました。
個人情報の保護体制に対する第三者認証制度です。
暗中模索の中、担当者は、まずは書籍を読み、専任講師に手ほどきを受けるところからの出発です。
個人情報の取得、利用、管理、提供、機微情報などに難しい言葉や定義が多く、
頭を整理して理解するのに苦労しました。個人情報を含んだ書類の収集と分類も大変です。
当社にはどんな帳票、データがあるのか、全社から集めて会議室で花札のごとく並べて分類しました。
書類だけで300はあったと思います。現在の個人情報一覧表等はその当時からそれほど変わっていません。
構築後の外部審査で、パソコンのアップデートがされていないことを指摘され、冷や汗をかきました。
当時、岐阜営業所だけ警備保障の契約をしていなかったので、
パソコンを机にワイヤーで繋げるように規則を書き直す必要もありました。
プライバシーマーク制度は、全社の設備および社員が同レベル以上でなければなりません。
我々はPDCAやリスクマネジメントの概念をここで大いに学びました。
自分にとっては常務取締役に昇格した時が大変革だったため、
社長就任を告げられた時は、さほど重圧を感じませんでした。
入社当初から、なりたい目標や志はありませんでしたし、漠然と要求されることを淡々とこなし、
無難に定年退職を迎えることしか考えていませんでした。
考えなくても当社のビジネスモデルに乗っかり、取引先様に助けられるままに仕事していたと改めて思います。
そんな自分が大きく変わる転機となったのが、常務取締役になった時でした。
「考えなければいけない、決めなければいけない、信用してもらわなければならない、
責任を取らなければならない」など、やらなければいけないことだらけです。
覚悟を決めて、一から当社を理解することから始め、思考ができるよう訓練を積み重ねました。
このことが「興味を持つ」ことにつながったのかもしれません。
興味を持つと、執着心が出てきて、恐怖心が生まれました。
恐怖心を払拭するために、日々自分が納得できるまで最大限の努力をするようになりました。
常務取締役になってからの自身の変化が功を奏して、社長に就任した時の重圧がさほど多くなかったのです。
覚悟が現実のものになったのだと思います。やるべきことを淡々とやるだけ、と思えるようになっていました。
社長になると、気になることが増え、それが気にならなくなるまで確認をします。入社時の無関心とは真逆の日常です。
私のような無関心な若者が当社で成長できたのは、会社が自分に関心を持ち続けてくれたからだと思います。
社長になっても、変わらずに見守ってもらっている気がします。
誰がそうしているというより、そういう会社なのだと思います。
当社が取引先様から評価されているのは、本当に役に立てるよう取引先様に興味を持ち続けたことによると思います。
不器用だが純粋に。だから成長し続けているのだと思います。それが当社の魅力と行動指針。
時代が変わろうとこれらを失わないよう「最大限努力」していきます。
創立40周年にあたる2018年、春日井市に新社屋が完成しました。
これをきっかけとして、当地のパートタイマーを積極活用して独自の経営効率改善を図り、
かつ従業員支援を充実させています。
より確実な将来のために、当社は事業継承しました。
検討の結果、経営責任者は鈴木社長と新海常務が引き継ぎ、株式は創業者の出口 満からJAFCOへ移転されました。
JAFCOはプライベートエクイティ分野に特化したベンチャーキャピタルです。
豊富な投資実績によって培われた経営支援ノウハウと広範なネットワークは、
戦略パートナーとして当社の未来に資すると考えています。
整備工場プラットフォーム化を掲げ、提携整備工場様の経営支援を積極的に実施しています。
EVや自動運転など自動車変革期を見据えた整備技術セミナー、
人財不足を緩和するための外国人整備要員の紹介、経営者高齢化による事業継承支援、
新機軸を取り入れた整備工場を取材するメールマガジンなど、多角的な方策で提携整備工場様を支援しています。
12月25日、東京証券取引所グロース市場(証券コード:5870)へ新規上場しました。
優れた人財の獲得とこれまで蓄積してきたデータ活用のための情報システム開発を一層推し進めると同時に、
モビリティ・インフラの“新化“を支えるプロフェッショナル集団として、自動車整備業界に貢献して参ります。